戦争
2010/01/06
長野の、母方の田舎に帰るたびに聞くのが爺ちゃんの戦争の話。爺ちゃんは今年89歳。10年くらい前に婆ちゃんに先立たれて長野の一軒家に一人で暮らしている。足腰はかなりしんどいようだが掃除洗濯飯、縫物まで全部自分でやる(この辺のしっかり具合は軍隊で鍛えられた部分があるようだが)。爺ちゃんは新しい知識は苦手なようで俺が今住んでいるところがどこなのか毎年聞いてくるしw、新しい人の名前もなかなか覚えないが、昔の知識/記憶はかなりしっかりしている。特に戦争末期の、南方に派兵され泥沼の戦場を逃げ廻っていた体験談は、決して饒舌な話口ではないにもかかわらず聞いているこちら側にその景色が見えてくるような、何か真っ青な鮮やかさのようなものがある。
20歳そこそこで新米兵卒として入隊後、さんざん先輩にいじめられた話。通信兵だった爺ちゃんがビルマの海岸でサボって遊んでた時の美しい海と空の話、戦線で足を撃たれ、動けなくなったときの話、密林で迷い飢え死にしそうになったときにやっと見つけた亀をとっつかまえて食べて一命をとりとめた話。何度も文字通りの死線を乗り越えたらしい。一番危なかった、戦線にて足を撃たれた時、動けなくなった爺ちゃんを同行していた将校が途中まで運んでくれてなんとかその場を逃げられたらしいが、その時その将校は爆弾で片方の手首を吹っ飛ばされていたにもかかわらず爺ちゃんを運んだそうだ。将校は爺ちゃんを敵に見つからない場所まで運んだあと、通信機を奪取さないよう爺ちゃんの代わりに担いで本陣まで戻ろうとして、その途中失血死してしまったらしい。手首を失いながら人は人を担げるものなのか、またそんな状況で通信機を守るという使命を果たそうと思えるものなのか。戦争が良い悪いは別として、話を聞くたびに今の時代に生きてる俺には想像できない、そこにあった一つ一つの行為の強靭さ、得体の知れなさを感じる。
自分が今ここに居る、ということは文字通り爺ちゃんが死ななかったからここに居るわけなんだけど。それとは別に戦争のような鮮烈な生死の光はのちに続く人生、生きていく命、次のそしてまたその次の世代を照らし出していくものなんだろう(「ねじまき鳥クロニクル」の井戸の中の光のような?)。戦争の無い世代が続き、だんだんとその光は薄れ、そこで産み落とされるものもまた変わっていくのも確かなのだろうが。(やまがみ)
